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【ポケモン】ポケモンというコンテンツが築き上げた"大前提"と、名ピカ最大の功績(ネタバレ無し)

 

 筆者の好きなブロガー「結騎 了」さんがこんな記事を書いていた。

 

www.jigowatt121.com

 

詳しい内容は記事を読んでほしい。ざっくり言うと「ポケモンオタクは虐待とか全然思わないけど、それはポケモンコンテンツがそういう描写を頑張ってきた証明だよね」みたいな話だ。

で、それを読んで自分も色々と思うところがあったので、記事にしたためてみた。ここから先は上の記事を読んでる前提で話を進める。

 

 

 

まずそもそも、ゲームフリーク(以下ゲーフリ)の想像では、ポケモンはどういう扱いなのだろうか。モンスター?超常現象?そうではない。そこらへんにいる生き物であり、ペットだ。

このことはこれまでポケモンコンテンツを追ってきたオタクなら共感できる内容だと思う。上の記事にもある通り、そういう文脈/ミーム/大前提を築き上げてきたことが、ポケモン最大の功績であるのだが、これについてもう少し掘り下げてみたい。

 

ポケモンをつくった男 田尻智 (小学館版学習まんがスペシャル)

ポケモンをつくった男 田尻智 (小学館版学習まんがスペシャル)

 

小学館学習漫画シリーズに「ポケモンをつくった男 田尻智」という本がある(歴史の偉人の隣にポケモン創設者の名が並ぶ本屋の棚はかなり面白い)。

この本の前半部分の本筋は「田尻氏の幼少期の体験と、それを基にしたゲームセンターでの情報発信屋としての活動が、ゲームフリークの創設、ひいては、ポケモンというコンテンツのスタートであり原点であった」という話なのだが、その描写において、「そもそもポケモンをどういうイメージでデザインしたか」という話が書かれている。重要だと思われるセリフのみ引用する。

ポケモンは人間の敵ではなく、味方となる存在なんだよ」(P.106)

「たとえばライオンやトラのように、野生のポケモンは人間を襲うこともある。また、中には共存してて、ペットのようにかわいいやつもいるんだ」(P.107)

「飼い主が犬の散歩をさせていると……(他の散歩中の犬と鉢合わせて威嚇状態に入ったときに、)普通なら飼い主は犬を引き離そうとする。でももし逆に飼い主が犬をけしかけたら……その瞬間から始まるバトル……」(P.108,109)

 一番重要なのは最後の引用である。そもそもの田尻案の原点からして、ポケモンは「戦わせるためのモンスター」「モンスターを戦わせることが目的」ではなく、「ペット同士をバトルさせる世界だったら面白いのではないか」ということなのだ。

恐らく、こういった世界はすでに遥か昔から存在する。飼っているカブトムシを戦わせる文化などがそれにあたろう。少し話は逸れるが、「ポケモンの原点は昆虫採集である」という有名な文節は、こういったところからも読み取ることができる。

また、2019年5月23日に発売された「週間ファミ通 No.1588」には「ゲームフリーク30周年の歩み」と題してロングインタビューなどが掲載されている。その特集内にて、ポケモンがまだ「カプセルモンスター」という名前であった時代の、本当に最初に作られた企画書の全ページが掲載されている(ページ転載は無し)。この頃はまだ怪獣色がかなり強く、今のポケモンのコンセプトとはまったく違うようなことも書かれているが、すでに「モンスターに乗って人々が歩く街」などのラフ画が描かれている。企画段階の最初から、ポケモンの扱いは何も変わっていないと言えよう。

これを踏まえると、ポケモン文脈を摂取してこなかった人間から「それは動物的観点から見ると虐待では?」という疑問が出てくることは、何も知らなくてもポケモンは現実のような動物性を持つように見えている(当然、架空の存在なので本当の動物ではない)ことの逆説的な証明にもなっていると見ることもできる。

 

さて、昨今でこそ、「名探偵ピカチュウ(以下"名ピカ")」「ポケモンGO」「アニメ サン&ムーンシリーズ」などの多方のメディアミックスからポケモンと共に暮らす生活」というものをプッシュされているが、これは今シーズンのテーマといった刹那的なものでもなければ、原点回帰でもなく、常にずっと語りかけ続けていることだと思う。

その証明のひとつとして、本編「ブラック・ホワイト」「ブラック2・ホワイト2」のシナリオが挙げられる。この作品に登場する悪の組織プラズマ団ポケモンは人間に支配されている可哀想な生き物なので、人間はポケモンを解放すべきだ」という主張をする宗教団体であり、「ついにゲーフリがその問題を軸にしたか!」という意見も当時は散見された。

しかし、そもそもそういう突っ込みがファンから出てくること、それ自体が、ポケモンは人間と共に生きるペット的存在である」という大前提をファンの間で築き上げることに成功していることの逆説であると捉えることができる。

少し話は脱線するが、実はBWシナリオでは「結局ポケモンは人間といるのが正解で幸福なのか」ということに関しては答えを出していない。強いて言うなら科学者アクロマの「とりあえず今のとこは、ポケモンは人間といたほうが力を発揮できるっぽい」という旨の発言程度だ(今思えばこれはメガシンカの布石だろうか)。これは、「そんなこと、言わなくてもわかってるよね」というBWシナリオのアンサーであり、「そういうことを考える人間が吐き気を催す邪悪として描かれる」こともまた、無言のアンサーである。もしこれが本当に提示したい問題ならば、ゲーチスは絶対悪ではなく、主人公を揺るがすライバルとして描かれなければならないだろう。

 

では、そういった「大前提」はどのようにして築き上げられたのだろうか。

それは、先ほども少し述べたように、各メディアミックスの力が大きい。ゲームシステム上、戦わせることがメインに据えられてしまう本編では、それ以外の描写に関してはどうしても不十分になってしまう(言うまでもなく、そういう縛りの中でそれが表現できないか、各世代で様々な取り組みをしているだが)。しかしゲームではないメディアは、そこを様々な視点から補強することができる。具体例として、コンテンツ初期からあるメディアミックスを取り上げてみると、

ポケモンカードゲームのイラスト:ポケモンたちの生物的な一面と、多種多様な表現(粘土、水彩絵、デフォルメ絵、etc……)」

ポケットモンスターSPECIAL:「図鑑説明に基づいたポケモンたちの生態と、ポケモンは大規模なオープンシェアワールドでもあるという前例」

・アニメシリーズ:「人とポケモンの絆」

などが挙げられるだろう(もちろんポケスペ等でも絆は描かれている、本記事の主題はそういう話ではないので省略する)

余談だが、最近ではここに「グッズ」というジャンルの勢いが激しく追いついてきてる印象がある。昔からぬいぐるみは当然存在したが、ここ数年のグッズ展開の速さと、「PokeFit」シリーズ(151匹をすべてぬいぐるみにする企画)、等身大ぬいぐるみシリーズのように、ポケモンは身近にいる」ことを物理的に証明しに来ているように思えてしまう。ぬいぐるみ自体の質が向上したことも一因だろう。

 

そしてこの延長線上に、名ピカは存在する。実写表現もさることながら、あの世界観や緻密な生活描写などは、一朝一夕で出来上がるものではない。株式会社ポケモン(以下"株ポケ")が大事にしてきた各ポケモンの細部デザインやイメージが積み重なって成立するものだ。

どこのサイトだったか失念してしまったのだが、「株ポケは最初、バリヤードを実写化することに少し難色を示した」という記事を読んだ。最終的には、「やってみればいいんじゃない?」と笑いながらオーケーサインを出した石原社長(株ポケの社長)によってあのシーンが出来上がるのだが、この「きちんと難色を示せる」ところに、株ポケの強さを見た。ポケモン全体という単位ではなく、809匹個々の単位でのブランドイメージを大事にしていること、その主張が説得力のあるものとして通ることは、実はとても重要なことである。

 

ところで先ほど「延長線上」と書いたが、そうしたコンテンツは、実は大きな落とし穴を孕んでいる危険性がある。それは、積み重ねや大前提を常に摂取しつづけてきた最前線のファンにしかわからない作品になるということだ。

しかし名ピカはそうではなかった。積み重ねてきた経緯を知らない人でも楽しめる映画に仕上がっていた。それは確かにポケモンブランドだからこそできる芸当かもしれないが、だからといって積み重ねをおろそかにしているわけではない。「積み重ねてきたことをアピールせずに、その頂点を見せる」という難題を成功させ、「大前提を知らなくても、丁寧に積み重ねてきたものならば必ず通じる」を証明したことが、名ピカ最大の功績であると考える(まとめ)。

 

名ピカ感想記事でも書いたことだが、この作品が前例となってまた新しい表現が生まれることを楽しみにしている。

 

関連:名ピカ初日感想記事↓

tenloooooooow.hatenablog.com