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【アンテ】MEGALOVANIAクソデカ感情厄介オタクが、スマブラアレンジについて思うこと

 MEGALOVANIAめんどくさおたくのなれのはて(Undertaleネタバレ注意)

 

発端

 9月5日、本当にスマブラにSansが来てしまった。いや、コスチュームだが……

www.youtube.com

 20:33ぐらいから。この参戦ムービー(?)も10秒ほどであるのに最高にSans要素もりもりで素晴らしいですね。

 

 仮に「Sans本人がスマブラに参戦する」だとしても、そんなに解釈違いで騒がなかったとは思うが、「コスチュームで参戦する」というのは一番理想的な形であり、またMEGALOVANIAのアレンジが付いてくるなんてことは夢にも思わなかった事態であり、今でも夢だと思っている。

 というわけで今回はMEGAROVANIAと、それがスマブラでアレンジされたことが何を意味するか?について衝動的に書いてみようと思う。や、ほかに記事のタスク溜まってんのわかってんだけど……とりあえずリハビリも兼ねて。

 当たり前だがUndertaleのネタバレをゴリゴリに含むので、未プレイは読まないでほしい。

 

 

 

前提①:MEGALOVANIAはSansの曲ではない

 Undertaleファンの間ではもはや有名すぎる話だが、MEGALOVANIAはSansのために書き下ろされた楽曲ではなく、作者であるToby Fox(以下Toby)がこれまでいろいろなゲームや劇伴のために作ってきた曲だ。

www.nicovideo.jp

 どれも「ここぞ」という場面(ラスボス戦など)で使われているイメージが強く、自分は「Tobyの勝負曲」のようなものだと解釈している。実際、Undertaleの成功(主に資金面やTobyへの信頼)はHomestuck劇判を担当したことによる知名度の上昇が深く関わってくるので、思い入れの強い曲という点で間違ってはないと思う。

 故に、「Sansの戦闘曲はMEGALOVANIAである」は真だが、「MEGALOVANIAはSansの曲である」は一概に真とは言えない。今回のMEGALOVANIA配信も、それに則れば解釈違いともなりかねないのだが、それは後述。

 つまり何が言いたいかというと、Gルートの最後に勝負を仕掛けてくるのは、Sansであると同時にToby本人なのだ。これを受けて前提②に進む。

 

前提②:MEGALOVANIAはUndertaleにおいて異物である

 異物という強い言葉を使ってしまったが、何もこれは批判しているわけではない。文字通りである。MEGALOVANIAはUndertaleの世界観に存在してはならない。それは大きく分けて二つの意味を持つ。

 1つ目はゲームシナリオ上での「異物」。当然だがGルートは本来「プレイしてはいけないルート」である。その終局に「作者自身」を置くのは妥当と言っても過言ではないだろう。完成されていた地下世界に作者の生き写しのようなBGMを配置するのは、その世界観への冒涜に他ならない。そのことがまた、「この世界を自らの手で壊してしまった」というプレイヤーの罪悪感にも影響する。

 2つ目は音楽の内容的な意味での「異物」。Undertaleの楽曲はほぼ必ず「何かの曲と同じフレーズ(ライトモチーフ)を共有している」のであるが、MEGALOVANIAにはそれがない。他のGルート限定曲(《Battle Against a True Hero》等)は何かしらのモチーフを共有しているので、やはりこれも「MEGALOVANIAはUndertaleの楽曲ではない」ことの証左であろう。

 ちなみに各楽曲のライトモチーフに関してはここが詳しい。

undertale.fandom.com

 

前提③:筆者の初見感想

 どちらかというとこれは余談に近い。普遍的事実ではなく「自分が初めて聞いたときに感じたこと」だ。だからこれはあくまで自分の妄想だということに留意していただきたい。

 MEGALOVANIAのイントロ(最初8小節)はほぼ単音単パートである。これは「Sans」だ。すでにほぼすべてのキャラクターを皆殺しにし、この世界に残るのはもはや自分とSansだけと言ってもいい。ゆえにイントロ4小節はチップチューンを思わせる静かな始まりで、この世界にもうSansしかいない(比喩)ことを示唆させる。だが5小節目からだんだんと裏のパートがフェードインしていき、8小節目のドラムを機として、9小節目から途端に楽器の数が増大する。

 この増えた弦楽器にとてつもない恐怖を覚える。それまで「一人しかいない」ことを強調してきたイントロとは対を成す構成。「一対多」を否が応でも思わなければならない状況。では多とは?これまで殺してきた者たちに他ならない。そう捉えると、MEGALOVANIAがいわゆる「処刑用BGM」であり、Sansのテーマにとどまらない「聞いてはならない」「聞くようなことがあってはならない」曲だというのがおわかりいただけるだろうか。

 これは考察ではなく、妄想である。しかし初プレイ時にそう思ってしまったことは事実であり、これが原体験となっているからこそ、MEGALOVANIAへの思い入れは一層強いのだなあと思う。

 

以上の前提①~③を踏まえて、今回のスマブラアレンジに思うことという本題に入っていきたい。

 

Ⅰ.これは「Undertale」である

 念のため先に述べておくが、「作者はこういう意図でアレンジした」と言いたいのではない。あくまで「自分はこう感じた」という、妄想の吐露でしかない。これを作者の意図と断定するには、あまりにも根拠が少ない。

 最初こそ、これはよくあるセルフアレンジの形なのではないか……と思った。実際音源は同じであるし、原曲をよく尊重(?)している、自分の好きなタイプのアレンジである……と思った。だがそれはまったくの見当違いであると言わざるを得ない。

 原曲は、いわば孤独な曲である。「一ではなく多」の曲とはいえ、戦うのはそれをすべて背負うSansだ。そこには「戦いたくなかったのに戦うしかない」というSansの悲哀すら読み取れる。

 最初のほうこそ原曲の忠実なアレンジ(これもパートが増えているおかげか、どこか「狂気」を感じられるのが面白い)であるが、静かになる場面から様子が変わってくる。その重々しい太鼓はどこか《Asgore》や《Heartache》を思わせ、鉄琴の音は《Memory》を彷彿とさせる。しばらくしてまた《MEGALOVANIA》のメインフレーズが入ってきた後、バイオリンの重厚なソロが響く様子は《Hopes and Dreams》のイントロを想起するに十分すぎる。どれも明確なライトモチーフではないが、確かにそこには「Undertale」が存在するのだ。かつて冒険した地下世界の記憶が、嫌でも蘇らせられる。

 その後、Homestuck版のMEGALOVANIAにも似たギターソロを挟み、それらの記憶は満を持してTorielやAsgoreを代表するライトモチーフとして顕現する。そして最後には聞き慣れすぎた《Papyrus》。

 無であり概念でしかなかった存在が、ふたたび実体(ライトモチーフ)をもって蘇るという流れは、言うまでもないだろうがAsriel戦と同じだ。

 先ほど前提②で「MEGALOVANIAはUndertaleの曲ではない」と称した。しかしこのアレンジは違う。紛れもなくUndertaleだ。地下世界の生き写しがここにある。

 このアレンジを持って、MEGALOVANIAはようやくUndertaleの一部となったのだ。そして唯一の異物を抱えていたUndertaleもまた、この時をもって真に完成したと言うこともできる。MEGALOVANIAが、Undertaleを認めたのだ。

 だがそれは「存在してはいけないGルートの肯定」をも暗に示しかねない。Gルートの可能性を示し続ける役割があるからこそUndertaleはいつまでも未完成であるのだし、Gルートは許されてはならないということは変わらない。だがそれすらも超越したうえで、UndertaleはUndertale足りえるのかもしれない。それはかつて知る人ぞ知るインディーズゲームが、今こうしてスマッシュブラザーズに参戦しているという現実とも重なる。認められてしまったUndertaleは、今度は自分自身を認めざるをえない。これはGルートの直視という、これまで触れてこなかった最大の禁忌であるのだ。結局のところ、果たしてこのアレンジがGルートの救済なのか、肯定なのか、やってはいけない禁忌だったのか、最後のピースなのか、それは聞いた各々が判断するしかないのだ。

 散々言ってきたが、これを作るにあたる一番の理由は間違いなく「人気曲だから」「Sansの戦闘曲だから」なのであり、深い意味は無いのだろう。だが「深い意味もなく人気曲だからという理由でMEGALOVANIAを選択できる」ということに意味を見出したく、Gルートの話まで行きついてしまった。それほどまでに、アレンジされたことが予想外であり、MEGALOVANIAは特殊な曲なのだ。

 

Ⅱ.Undertaleに固定されたMEGALOVANIA

 こちらはややメタ的な視点となる。前提①でMEGALOVANIAは元々Undertaleではないことを説明した。MEGALOVANIAはそれ単体で作品足りえる。どういうことかというと、これから先Undertaleの関係ないところでMEGALOVANIAを使う可能性は十二分に存在したのだ。

 例を挙げると、今回のニンテンドーダイレクトで、ゲームフリーク制作「リトルタウンヒーロー」のBGMがToby作曲であることが発表された(こちらも非常に期待度が高まる)。このゲームのボスなり隠し曲として、MEGALOVANIAを仕込んでくるという可能性は、Undertale以前の例に則れば、むしろ自然な考え方である。

 だがそれは今回のアレンジでほとんど否定されたのかもしれないのだ。MEGALOVANIA側にUndertaleのフレーズをこれでもかと持ち込み、UndertaleにMEGALOVANIAを「固定」させてしまった。といっても、Sans諸共知名度が高すぎる故、もう他のゲームに出すことはすでに不可能だったのかもしれない。だから、それをToby自らがトドメを刺したように思えてならない。

 もちろんこれらの考えは真逆の結果に終わるかもしれない。「これはUndertaleのMEGALOVANIA」「これはリトルタウンヒーローのMEGALOVANIA」と定義づけてくる(そのゲームのフレーズを最初から盛り込む)可能性もあるからだ。だがこれほどまでにUndertaleの要素を強めてくるとは想像を超えており、これもまた結局、Ⅰと同じく「何か意味を見出したかった」だけに過ぎない。

 

おわりに

 なんだかあんまりうまく文章で伝えられた気がしない。だが主観的な事実として、このアレンジは非常に素晴らしく、これがこの機会にこうして聞けたことはまたとない幸運、これ以上ない幸福と言ってもいいだろう。ありがとうMEGALOVANIA……ありがとうToby……ありがとうSAKURAI……

 Undertaleに限らず、どうしてもこういうものは原曲とその音源が一番だなあと思ってしまうので、原曲を限りなく尊重したアレンジというのはとても自分好みである。

 そして何より、先ほども触れたが、「リトルタウンヒーロー」の期待度が爆上がりしてしまった。それほどまでにTobyには絶大な信頼を寄せている自分がいる。Tobyのライトモチーフをふんだんに用いる手法というのは、自分の他のコンテンツ(特に東方とはほとんど真逆に値する)ではあまり見られず、またそれが味わえるかもしれないというだけでも、楽しみが一つ増えた。もちろんDELTARUNEも。