鬼火電磁波痛み分け

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【ポケモン】ルギアがいなければ、「みんなの物語」は成立し得ないという話

 みんなの物語。名作である。本当に名作だった。ほとんど不満はないといっても良い。最高。神。

 そんな当作品であるが、当時しばしばこのような意見を目にした。


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「ルギアである意味、ある?」

 確かに言いたくなるかもしれない。前作ではホウオウが大きくフィーチャーされたが、その対比としては今作のルギアはあまりにも影が薄い。

 実際問題、これを真面目に批判点として唱えている人は見たことがない。しかしこの「ルギア必要不要問題」は、この作品を考えるうえで、また「ルギア」というポケモンを再認識する上で、非常に重要なキーとなるのである。

 

 

 

①ルギアの持つ役割の再確認

 最初に、ルギアというポケモンがこの「みんなの物語」(以下「みんなの」)においてどういう役割を持たされていたか、簡単に再確認を行おう。

 

a.救世主/創造神としての崇拝

 創造神、というのは少し言い過ぎのように思われるかもしれないが、舞台がフウラシティのみに絞られている以上、役割的な意味での「創造神」としても差し支えはないだろう。

 重要なのは「崇拝されている」ということである。この部分が、次のbの重要な構成要素になる。

 

b.デウスエクスマキナとしての役割=ゴール、目標の可視化

 ここにおけるデウスエクスマキナとは、簡潔に言えば事件の収束を表す要素のことである(それが実際に力を齎していても、齎していなくても)。「ルギアを呼べばよい」という明確なゴールが存在することで、何を目標としているのか?ということがシナリオ的にもわかりやすくなり、理解が迅速になる。

 またそのためには、そのシンボルがゴールであることに対する理由も必要であるが、それが崇拝されている救世主という設定ならば、自然である。

 演出や見栄え的にもゴールの可視化は重要である。極端な話、町を再び動かすための動力にポケモンを用いない手段も容易に考えられるが、ここに「神がかり的なポケモンの力」が働くことで、この土地がルギアを崇拝しているという設定の強化や、「ルギアに遭遇する」という報酬のような働きも持つ。

 

c.試練を与える者

 実際には、そうであったという設定はないし、描写も存在しない。だが、「これはルギアが我々に与えた試練である」という崇拝は登場人物たちのモチベーション、行動意義にもなっており、シナリオを自然に進める上では非常に役に立つ役回りである。

 

 

②新ポケモンではいけなかったのか?

 ではルギアである意味の考証に入る。

 この問題を考えるにあたって最初に出てくる疑問は、「既存ポケモンであるルギアをわざわざ使う意味はあったのか?」である。では反例的に、「新ポケモン=幻枠のポケモン」が、上述するルギアの役割を担っていたしよう。また、ここでは少し商業的であろう理由にも踏み込み、前述した①のa/b/cの要素を最低限満たすものとする。

 

a.描写の追加

 まずは、この新ポケモンの描写を追加しなければならない。ルギアのように、最後にちらっと出てくるだけでは新ポケモンの宣伝には成り得ないからだ。なんなら戦闘描写があったほうがいいかもしれない。そうなると必然的に、戦闘する必要性があるシナリオにしなければならない。

 

b.設定および役割の固定化

 この映画が初出である以上、設定の固定化は免れない。そうなると、メディアミックス(最も近い例がアニメだろう)の時、bやcの要素が足を引っ張りそうである。神格化されている以上、気軽には出せそうにないし、試練を与えるという設定も、この舞台だけの設定だとしても、それはつまり他の舞台では役割を持って出しにくい、ということになる。

 余談(蛇足)だが、「初出映画の設定を常に意識する」という前例になりうるポケモンは多く存在する。その多くは「初出映画の個体が特別な個体で、ポケモンとしての生態設定はしっかり作りこまれている」「出演するときのシナリオの流れがテンプレート化されている」あたりにうまく落とし込んでいる。両方を満たしているのはダークライが最も良い例だろう。生態の設定が主になっている例はエンテイラティオス/ラティアスなどが挙げられる(挙げていくとキリがないので省略)。

 また、先ほど「戦闘描写は欲しい」と言ったが、それと①の要素を両立させようとすると、どうしても「強大なポケモン」「人の力をはるかに凌駕するポケモン」という要素が強調される。また「試練を与える者」である以上、それと戦闘するとなると、神話的要素も強まり、シナリオの展開の仕方によっては視聴者によって元凶と見做されるかもしれない(「お前さえいなければ~」タイプ)。先例ではミュウツーアルセウスが該当する。

 このあたりは前述の「設定の固定化」と同様なのだが、これから先もそのような役割を求められることが多くなるということにも繋がる。

 

 もうお分かりかもしれないが、これが現状すべて裏目に出てしまっているポケモンをご存じだろう。

 

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マーシャドーである。「キミにきめた」終盤でマーシャドーが戦闘する不自然さや、役割が煩雑になってしまいよくわからないこと、メディアミックスが難しい設定になってしまっているのはこれらに起因するとも考えられる。

 「キミにきめた」におけるマーシャドーが不要だったとは思わない。むしろ突き詰めていけば必要な要素である。だが説明が足りなかった。つまりそれは尺が足りないということだ。映画は二時間も無いのに、新ポケモンを出せば、その分それに割かなければいけない尺が増える。今作ではゼラオラもいるのだから猶更だ。

 ルギアは既存ポケモンであるので、描写も最低限で良いし、設定の祖語も考えなくてよい。理にかなった判断だと言える。

 

③他の既存ポケモンではいけないのか?

 いやいや、ちょっと待ってほしい。「設定の祖語がない」?ルギアにだって設定は存在するではないか。

 確かにその通りである。そのあたりも踏まえながら、他の既存ポケモンとの比較をしてみよう。全種類を例に挙げることはできないので、ここではルギアと同じ「パッケージを飾る伝説のポケモン」ということにしてみる。これは①の要素を満たす上でも参考になる指標なのではないか。

またここでは、シナリオ的理由を優先し、商業的理由は考えないものとする。例えば、「初代推し映画の次の年だから金銀を推したい」というのは商業的理由に含まれる。これはシナリオ的には何の意味も為さない。

 

a.ミュウツー/ホウオウ

ミュウツーはパッケージを飾ったポケモンではないが、同じようなものとして記述する。とはいっても、この2匹はあまり説明する理由もないだろう。商業的理由は考えない、としたが、いくらなんでも2年連続で同じポケモンが主役を飾るのには無理があるし、飾るにふさわしい理由をこのシナリオに盛り込むのも本義ではない。どうしてもその「ミュウツー/ホウオウを無理にでも出さなければいけない理由」に引っ張られてしまうからだ。

 また、後述する他の例と違い、実は凝り固まった設定はほとんど無く、非常に融通の利くポケモンなのだが、その分非常に役割がはっきりしている。ホウオウはこの映画が望む役割に相応しいかもしれないが、ミュウツーは間違いなく難しいと言える。

 

b.ホウエン/シンオウ/イッシュ/アローラ

 全員羅列するといたずらに長くなるので、地方ごとに分けた。それぞれのパッケージを想像してもらいたい。

 この項目がほぼ本題である。なぜレックウザではいけないのか?なぜアルセウスではいけないのか?

 例えば、ルギアの枠がレックウザだったとしよう。そうなると恐らく、出てくるポケモンホウエンポケモンばかりになるかもしれないが、その部分ではシナリオ的に何も問題はない。

 だが崇拝されるポケモン、助けに来るポケモンレックウザである、という点が厄介だ。ホウエン地方レックウザは、あまりにも密接に結びつきすぎているのである。

 これがどういうことかというと、「みんなの」は完全に「ホウエン地方の物語」になってしまうのである。これはホウエン神話が存在する以上仕方のないことであり、必然である。実際、そういう設定があるからこそ、ホウエンという舞台の奥深さは増している。

 しかしそれは「みんなの」においては致命的だ。「みんなの物語」の「みんな」とは、この映画を見ている私たちも含まれる。それなのに劇場で見せられているのはホウエンという、完全に虚構の舞台になってしまう。当然私たちが劇場で見たフウラシティもまた虚構なのであるが、ホウエン地方は私たちが「虚構として慣れ親しみ過ぎている」のだ。

 フウラシティが虚構ではなく、ホウエン地方が虚構であるというのは、ここが最大の違いとなる。そこ(ホウエン地方)がポケモンの世界だということを、ポケモンを好きであればあるほど、嫌というほど思い知らされてしまう。ああここはホウエンのお話なんだな、というのが無駄に強調されてしまう。実はフウラシティは、ジョウト地方だとは明言されていない。

 またホウエン神話に触れなければいけない以上、ホウエンである必然性がシナリオに生ずるかもしれない。そうしたらまたそのことについて尺を割かなければならないかもしれない。このあたりは完全に邪推だが、とにかく「すでに既知のバックボーンが、舞台レベルで存在する」ことが、この映画においては裏目に出る、ということだ。

 今の例はホウエンだったが、シンオウでもイッシュでもアローラでも同様である。イッシュとアローラは特定のキャラクターとセットで扱われることも多いため、さらに難しい。

 

c.カロス

 そういう括りで言うと、カロス組は設定が薄い。XY(ゲーム)のシナリオでも、結構唐突に出てきた覚えがある人も多いのではないか。ことジガルデに至っては、ゲーム中の設定は皆無である(そもそもパッケージを飾ってすら無い)。が、アニメでの印象が強いので、ゼルネアス/イベルタルよりも設定がしっかりしている印象が強いかもしれない。

 元々の図鑑設定にマイナスのイメージ(死)が付随するイベルタルはともかく、ゼルネアスについては否定点が特に見つからない。役割も特に存在せず、カロスという土地にそんなに引っ張られていない。強いて言うなら、ゲーム中での扱いが「兵器」だったことであろうか。

 

 さて、これまで列挙した要素を整理すると、「役割が定まっていない」「既存の舞台に引っ張られない」ことが重要であることがわかった。それらを踏まえた上でルギアというポケモンの設定を考えてみる。

 ……驚くぐらい何もないではないか。ゼルネアスなんて目ではないぐらい何もない。そう、ルギアというポケモンは立ち位置があまりにも特殊なのである。例えるなら、ワイルドカードに等しい。

 まずは図鑑説明から見てみよう。

・強すぎる能力を持つため、深い海の底で静かに時を過ごすと伝えられる(金、LG)

・海の神様と伝えられる。嵐の夜に姿を見たという話が伝えられる(銀、FR、Y)

・荒れ狂う海を鎮めるほどの力を持つ。嵐になると姿を見せると伝わる(クリスタル)

・翼を軽く羽ばたかせただけで民家を吹き飛ばす破壊力を持つために、海底で人知れず暮らすようになった(RSE/ORAS

・深い海溝の底で眠り、ルギアが羽ばたくと40日嵐が続くと言われている(それ以外)

  「伝えられている」「言われている」ばかりで事実がまったく描かれないのは伝説ポケモンにはよくあることだが、事実として唯一書かれているのは「海底にいる」ということだけである。逆に言えば、この設定さえ守ればあとはなんでもいい、と捉えることもできる(少々暴論だが)。ちなみに「みんなの」ではこの海底要素すらほとんど無く、「人の知らないところにいる」とさらに一般化している節がある。

 また知ってのとおり、ルギアは映画先行のポケモンである。ソースを失念したが、脚本の首藤氏の残した「ルギアは元々映画限定のポケモンでありゲームで出すつもりは無かったが、金銀の開発が伸びたため出すことになった」という話すら存在するほどだ。

 そもそも映画が初出なのに、そこで出てきた設定すら後年ほとんど使われていない。三鳥とルギアはよくセットで扱われるが、そんなことはゲームのどこにも出てこない、映画のみの設定である。映画においても、爆誕もしなければ、命を懸けてかかってこさせることも無かった。「光輪の超魔人フーパ」で再登場した際も、「爆誕」のものと同一個体なのかそうでないのか、テレパシーを使うのか使わないのかもはっきりしていない(ただし小説版では同一個体と明言されており、テレパシーも使う)。

 アニメでは子供のルギアすら出てきたこともある。最もこれはほとんど黒歴史になっているようだが……

 では肝心のゲームにおいてはどうなのかというと、「カネの塔に降り立っていたポケモン」程度の情報しかなく、三犬を蘇らせた伝説の残るホウオウと比べると、大して信仰もされていなさそうだ(リメイクでは少しテコ入れが入ったが)。

 そんな出自と関係あるのかないのか、水タイプなのかエスパータイプなのかすらはっきりしない。例えばポケモンカードゲームにおいて、ルギアはほとんど水タイプか無色(=飛行)タイプとして扱われ、超(=エスパー)タイプと扱われているルギアは旧裏時代に1枚確認できるのみである。エスパータイプが選ばれた理由も「当時強かったから」であり、そんなことで決めていいのか……と思わせてしまう。

 さらに、どこに住んでいるかも謎だ。海の底だったり、うずまき島だったり、へその岩だったり、アーシア島だったりする。アーシア島はオレンジ諸島の果てらしいので、つまりはカントー地方である。つくづくジョウトという地方と関連が無い。ダークルギアなんていう派生まで存在するが、これもまたジョウトと関係が無い土地の話である。

 三世代ないし四世代にポケモン原体験を経験した筆者のような世代だと、ルギアとホウオウは互換切りの影響で通常プレイでは出現せず、幻のポケモンとして扱われ、全国図鑑完成にも必要ない存在であった印象が強い。このことは設定とは何の関係もないのだが、そういった点からも、立ち位置があやふやである。

 

 「具体的な説明も少なく」「どこにいるかもはっきりせず」「複数個体いても不自然ではなく」「それでいて人気が高い(ポケモン総選挙28/720)」。新たな役割を担わせるポケモンとして、これほどまでに適任なポケモンは存在しないのではないだろうか。

 

結論:ルギアが最も役割に合致している

 

 いかがだっただろうか。筆者がこの記事で伝えたいことは「土地と舞台に縛られない設定が容易かつ深い感情移入を可能とすることもある」「ルギアはその設定の無さ故、ワイルドカードに扱うことのできるポケモンである」の二つである。シナリオや役割と言った面から考察すると、このような気づき、再発見も得ることができる。特にこのような群像劇であるなら、なおさらそうである。

 読者の皆さんも、また新たな視点でこの「みんなの物語」という作品をもう一度楽しんではどうだろう。

 

 

おまけ:ゼラオラの存在意義について


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  蛇足となりかねない上に考察が足りないのだが、同時によく言われていた「ゼラオラ不要論」にも少しだけ触れておく。

 

 まずゼラオラは、雷タイプの新ポケモンであるということよりも、どちらかというと「未知かつ普通のポケモンであることに最大の意味がある。

 前述した通り、フウラシティはジョウト地方と明言されているわけではないが、限りなくジョウト地方である。ポケモントレーナーである私たちにとって、ジョウト地方ポケモンはもう全員知っているのが当然なのだが、ひょっとしたらそうではないのかもしれない、と思わせる役割をゼラオラは持っているのだ。

 図鑑にも登録されていない、絶滅したポケモンが、「見知ったジョウト地方に」まだ存在するのかもしれないという高揚感を、実際初見時に筆者は抱いた。幻ではなく、普通の人の前に姿を現すような、普通のポケモン。新構えがいてもおかしくないような、特別感の無いデザインのポケモンであることが、それをさらに加速させる。例えるならルカリオゾロアーク枠だと言っても良い。サンムーン(ゲーム)にデータが存在する以上完全に同じ枠ではないのだが、役割的には同じだと言ってよいのではないか。

 また、アニメで再登場した際、そこがパラレルワールドであったことも大きい。ひょっとしたらあのアクジキング世界線と、「みんなの」の世界線は同じかもしれない。メタ視点ではゼラオラはパラレルの存在であるから、アクジキング世界線がパラレルであることへの理解にもつながる。あの世界のジョウト図鑑には、ゼラオラの文字があるのかもしれない。幻のポケモンではないから、ディア(あの回でのゼラオラの持ち主)と同じようにみんな普通にゼラオラを持っているのかもしれない。そう思うとこれもまた非常にワクワクしてくる。

 初出がパラレルワールドなのは扱いにくいだろうとも思ったのだが、それを逆手にとってさらに新たな要素を引き出した。サン&ムーンシリーズ(アニメ)は本当にすごいと思う(趣旨のズレ)。

 でんきタイプである理由も、シナリオ上は存在しない。だが存在しないということが重要なのかもしれない。そもそも自分に与えられた役割とアイデンティティが一致することなど、まず起こり得ないのだ。そのときに、自分の持っている力をどう活かせば、その役割を全うできるか?そういったメッセージ性があるようにも思えてしまう。すなわち、他の登場人物と同じように、感情移入の対象として作られたのかもしれない。

 

 ……普通のポケモンだからこそ、七世代にデータは入れずにルカリオと同じ引っ張り方をしたほうがよかったと思うのだが……(蛇足)。